平素より南三陸復興ダコの会を応援頂きありがとうございます。
2011年の3月11日14時46分、私は店主を務める料理屋の店内で、
ランチの営業が終わった後の束の間の休憩を過ごしていました。大きな揺れを感じ、
津波を予想した私は従業員と家族を非難させた後、店内の整理をしていました。
海から3km離れた店の倉庫には、米が備蓄されており、万が一津波で町がやられたときは
この米を提供しようと在庫を確認した後、念のため2Fに避難しました。ゴォーッという
不気味な音がし、ふと窓を見ると真っ黒い壁のような津波が迫っていました。
消防署(3F建て)の上に家が乗っている様子を見たときは死を覚悟しました。
あっという間に自分のいた店が津波にのまれ、僅かな隙間を使い
屋根へよじのぼった私は、文字通りの地獄を見ました。
ランチの営業が終わった後の束の間の休憩を過ごしていました。大きな揺れを感じ、
津波を予想した私は従業員と家族を非難させた後、店内の整理をしていました。
海から3km離れた店の倉庫には、米が備蓄されており、万が一津波で町がやられたときは
この米を提供しようと在庫を確認した後、念のため2Fに避難しました。ゴォーッという
不気味な音がし、ふと窓を見ると真っ黒い壁のような津波が迫っていました。
消防署(3F建て)の上に家が乗っている様子を見たときは死を覚悟しました。
あっという間に自分のいた店が津波にのまれ、僅かな隙間を使い
屋根へよじのぼった私は、文字通りの地獄を見ました。
そのまま建物もろとも2km流され、内陸に運ばれた私は屋根から
飛び移り、雪のなか傷だらけで歩き続け、九死に一生を得ました。
飛び移り、雪のなか傷だらけで歩き続け、九死に一生を得ました。
津波は、私の仲間を奪い去りました。「また明日な」と別れた友人を、店のお客さんを、
料理屋「志のや」を続けていくというささやかな夢を、奪いました。彼らが亡くなり、
自分はどうして生きているのか、毎日眠れぬ日が続きました。
その後の避難生活はインフラが整わないなか厳しい状況が続きましたが、
日本全国からのあたたかいご支援、地域住民同士の助け合いを通じ、家族や
地域の人との結びつきを感じました。そして目の前にいる人を大切に
してきた結果、全国の方々との大きな絆を作ることができました。
日本全国からのあたたかいご支援、地域住民同士の助け合いを通じ、家族や
地域の人との結びつきを感じました。そして目の前にいる人を大切に
してきた結果、全国の方々との大きな絆を作ることができました。
南三陸復興ダコの会は、そのような多くの方のご支援を経て震災3カ月後に
立ち上がり、廃校を利用した工房でオクトパス君の製作から始まりました。
立ち上がり、廃校を利用した工房でオクトパス君の製作から始まりました。
4年を迎えた今、私たちは新たな展開にチャレンジします。
オクトパス君事業、まゆ細工事業、木工品事業。
地域資源を活用したこの事業を軸に地元住民の「雇用創出」、「交流」の場を
継続・発展させて行きたいと考えています。
南三陸では寒い日が続きますが、目を凝らすとところどころにささやかな春の訪れを感じています。今年こそ南三陸町に本当の意味での春の訪れることを願っています。
どうかこれからも南三陸町の応援よろしくお願い致します。
平成27年3月11日
南三陸復興ダコの会 会長 高橋 修